世界が分断されなくなるとき
- Ellie Taniguchi

- 3月15日
- 読了時間: 3分
更新日:4月25日

最近、世界のさまざまな場所で、民主主義がうまく機能していないという話を耳にするようになりました。
選挙の分断。
政治の極端化。
社会の対立。
こうした問題は制度の問題として語られることが多いのですが、もう少し静かなところにも原因があるのではないか、そんな気がしています。
それは、人の中にある「正しさ」です。
いまの社会では、「正しいこと」が強く求められます。
正しい意見。
正しい行動。
正しい言葉。
もちろん、正しさそのものが悪いわけではありません。
けれど、人が「自分は正しい」と強く思ったとき、世界は急に二つに分かれます。
正しい側。
間違っている側。
その瞬間に、世界は分断されます。
しかし、本当に世界はそれほどきれいに分かれるものなのでしょうか。
本当の世界は、もっと曖昧で、もっと重なり合ったものです。
そして、誰もが世界の一部しか見ることができません。
つまり、世界をきれいに二つに分けること自体が、少し無理のある見方なのでしょう。
それでも私たちは、なぜこんなにも強く世界を二つに分けようとするのでしょうか。
正しいか、間違っているか。
味方か、敵か。
善か、悪か。
こうした分け方は、とても分かりやすいものです。
曖昧さの中にいることは、不安を伴います。
どちらとも言えない場所に立つことは、落ち着かない。
その点、世界を二つに分けてしまえば、立つ場所はすぐに決まります。
自分は正しい側にいる。
そう思えるとき、人は安心することができます。
もしかすると、二分法の思考が広がった理由の一つは、この安心感なのかもしれません。
先ほど、「本当の世界は、もっと曖昧で、もっと動き続けている」、と書きました。
これはきっと、人も同じではないでしょうか。
正しいこともあれば、間違うこともある。
強い日もあれば、弱い日もある。
その両方を抱えながら、人は生きています。
人は、世界を理解するために、言葉を使って考え、伝え合ってきました。
しかし言葉は、何かを意味する以上、
その言葉が意味するところと、意味しないものを分けてしまいます。
これは「正しいか」「正しくないか」だけの話ではありません。
私たちは、ほとんど森羅万象について、知らず知らずのうちに世界を「分けて」しまっているのかもしれません。
分けることは理解を助けます。
しかし、分けた瞬間に、私たちは真実から少し離れてしまう。
禅の世界では、物事をきれいに二つに分けすぎると、本来の姿が見えなくなると言われます。
世界を理解するための道具として生まれたはずの分け方が、いつのまにか世界そのものの形のように見えてしまう。
そうして、かえって世界を現実より狭くしてしまうこともあるのかもしれません。
以前、自己愛について書いたときにも触れましたが、自分を愛するということは、自分を特別だと思うことではありません。
むしろ、自分の弱さや不完全さを受け入れることです。
自分の中にある曖昧さや矛盾を受け入れることができたとき、世界もまた、少し違って見えてくるでしょう。
そして、冒頭の、「正しさ」の話に戻ると、
正しいことが、最善の未来を作るとは限らないのかもしれません。
むしろ、不完全でも、その場その場で、少しずつ形を変えながら生まれていく未来。
そんな連続する時間こそが、
私たちにとっての幸せなのかもしれません。



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